アフリカの産科フィスチュラ

落合雄彦(Takehiko OCHIAI) 更新日: 2013年11月01日

私が「フィスチュラ」(fistula)という聞き慣れない言葉を初めて耳にしたのは、いまから10年以上も前のことです。当時、私はアフリカの女子割礼(female genital mutilation: FGM)の問題について耳学問で知っており、多少の興味ももっていたので、あるナイジェリア人の大学医学部教授と彼女の研究室で話をしているときに、「ナイジェリアでもFGM問題は深刻ですか?」という質問をしてみたのです。すると、彼女からは、「ええ、たしかにFGMはナイジェリアにもあります。でもねぇ、フィスチュラの方がFGMより深刻な問題だと思いますよ」という答えが返ってきたのです。このごく短い会話が、今日まで続く私のフィスチュラ問題に対する関心の始まりでした。「フィスチュラって、一体何だろう・・・・」。

「フィスチュラ」は日本語でいえば「瘻孔(ろうこう)」のことです。瘻孔(ろうこう)とは、身体の組織器官などに形成される、通常みられない穴や管のことであり、日本でも耳などに瘻孔がみられる方がいます。しかし、ナイジェリアを含む一部のアフリカ諸国で今日問題となっているのは、主に難産に起因して形成される、女性器、特に膣の瘻孔のことなのです。それを総称して産科フィスチュラ(瘻孔)といいます。

アフリカの農村部では、今日なお女性が10代前半で結婚・妊娠することはけっしてめずらしいことではありません。ときには、初経前あるいは初経とほぼ同時に結婚し、それから数年以内に初産を経験することさえあります。こうした女性の極端な低年齢結婚は、もちろんアフリカ諸国でも法律で禁じられている場合がほとんどです。しかし、だからといって低年齢の結婚が実際に無効とされたり、当事者が罰せられたりすることがないのもまた、今日のアフリカの現実といえます。

そして、こうした低年齢の女性たちの出産は、栄養不足や発育不全などもあってときに難産になりますが、アフリカの農村部では帝王切開といった医療サービスを適切に受けられないことが多いために、分娩は数日間にわたってしまうこともあります。そして、そうした難産の母胎では、産道に詰まった児の頭部が母の骨盤や膣壁などを強く圧迫し、膀胱、膣、直腸といった周辺組織器官への血液の循環を長時間にわたって阻害し続ける状況が生じます。その後、児は死産となるものの、女性の体内では血行阻害による組織の壊死部分が拡大し、それがやがて膣のフィスチュラとなるのです。

こうした産科フィスチュラのうち、膀胱と膣の間に形成されたものを「膀胱膣瘻(ぼうこうちつろう)」(vesico-vaginal fistula: VVF)、直腸と膣の間に形成されたものを「直腸膣瘻(ちょくちょうちつろう)」(recto-vaginal fistula: RVF)といいます。アフリカ諸国で今日みられる産科瘻孔のほとんどが、VVFかRVFのいずれか、あるいはその複合型です。そして、膀胱と膣が繋がれたVVFの状態になると、尿が膀胱から膣へとたえず流入し、膣口から漏出する症状がみられるようになります。他方、直腸と膣が繋がれるRVFでは、便が直腸から膣を経由して漏出してしまうのです。こうした尿や便が膣口からたえず漏出する状態は、女性にとって極めて不快であるばかりか、女性器に潰瘍をもたらしたり、感染症を引き起こしたりする原因になります。

しかし、アフリカの産科フィスチュラが何よりも深刻なのは、それが単に身体的あるいは生物医学的な問題だけではなく、同疾患がより広く深い精神的あるいは社会的な問題を孕んでいる点にあります。若い女性たちは、難産の苦しみと死産の悲しみを経験した上に、さらに産後に瘻孔を患い、大きな精神的打撃を受けることになります。にもかかわらず、彼女たちは、夫や親類から慰められるどころか、逆に忌み嫌われることが少なくありません。というのも、フィスチュラの女性は下半身が尿・便でつねに湿り、そこから悪臭を放ち、ときに蝿が彼女の周囲を飛びまわったりするために、夫、家族、親類、隣人から嫌われ、差別されるからです。そして、彼女たちは、食事の準備に従事することを許されなかったり、夫に性生活を拒絶されたり、義理の母親や親類から様々な叱責やいじめを受けたりするなかで次第に孤立していき、やがては別居あるいは実家に送り返され、そして最終的には離縁されることが多いのです。フィスチュラは回復手術をすることが可能ですが、手術で治ることを知らなかったり、手術費用が捻出できなかったりするために、数年から数十年もの間、瘻孔問題を一人で抱え込み、悩み苦しんでいる女性も少なくありません。

産科フィスチュラは、19世紀頃までヨーロッパを含む世界各地でみられましたが、近代医療が普及した今日では、先進諸国をはじめ世界のほとんどの地域でほぼ撲滅されています。戦後日本でも産科フィスチュラの症例はほとんどありません。とはいえ、いまなお発展途上諸国を中心として全世界には、同疾患に苦しむ女性たちが約200万人いると推定されており、新たな患者数も毎年5~10万人にのぼるといわれています(これは、FGMに比べればはるかに小規模ですが、彼女たちが体験する差別や苦悩を想うとき、問題の根はより深いといえるかもしれません)。そして、そうした産科フィスチュラ患者を世界で最も多く抱えている地域のひとつがアフリカなのです(落合雄彦)。

トラックバック

このブログ記事に対するトラックバックURL:

コメント & トラックバック

No comments yet.